46 黒澤哲郎 Estandard

黒澤哲郎 Estandard(クラシックギター)

 黒澤哲郎(クロサワ テツオ)氏は1976年茨城県生まれの若手トップクラスの名工である。父の黒澤澄雄氏は1958年からクラシックギター製作を続けている日本のベテランルシアーであり、哲郎氏は幼い頃から工房の空気を吸い、同じギター製作家になることを夢見ていた。両親とともに東京に移り住み、ピアノやギターを習い、工芸高校アートクラフト科を卒業後、父のもとに入門する。1997年21歳でスペインに渡り、マドリッド派のテサーノス(Mariano Tezanos)、ペレス(Teodoro Perez)の工房に入門する。翌年には、グラナダ派のアントニオ・マリン・モンテロ(Antonio Marin Montero)の工房でシェラック塗装を学ぶ。1999年に日本へ戻り、父の助手を行いつつ自分のギターの販売を始める。

 黒澤親子の工房には木材収集家として有名な父が五十数年かけて集めた良材が大量にストックされ、長い年数をかけて乾燥されている。(ちなみに、父の澄雄氏は叔父にあたるルシアーの黒澤常三郎氏へ1958年に入門した。常三郎氏はMartinギターの日本総代理店である黒澤楽器店を1967年に創業している。また、昭和ムード歌謡グループ「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」の鶴岡雅義氏が愛用する有名なレキントギターは澄雄氏の作である。)

 Estandard(スタンダード)は黒澤哲郎氏のラインナップではベーシックモデルである。多くの日本の個人製作家は30〜35号(定価30~35万円のもの)をベーシックモデルにしているが、弟子がいたり、系列量産工場のある製作家の多くはベーシック機種に関しては製作家本人はほとんど製作に関わらず、弟子や系列工場が作っているものが多い。しかし、黒澤哲郎ギターはすべてのモデルを哲郎氏本人が一人で全行程にわたり製作している。トップにジャーマンスプルース単板、サイドバックにインディアンローズウッド単板を使い、スペインの銘工Vicente Camachoが、研究し確立させていったエックスブレーシングをベースに和音のバランスを重視したモデルとなっている。レスポンスが良く、スパニッシュな元気の良い音を出し優れた工作精度を誇る。特に塗装は経年変化や音響上の利点からオールシェラックである。多くのメーカーは50万円以上の機種にしかオールシェラック塗装のギターはないため、定価35万円はかなりお買い得感がある。この価格を超えたモデルが評判を呼び、哲郎氏に製作注文が内外から多く入るようになった。2015年には大手楽器店とのコラボカスタムモデルでカッタウェイギターなどの型にはまらぬギターも積極的に製作したり、日本のトップフラメンコギタリストである沖仁(オキ ジン)氏との共同開発でフラメンコギター沖仁モデルを発売したり、若くして日本のクラシックギター界を牽引している。

 2016年に大阪梅田の楽器店のイベントで黒澤哲郎氏のギタークリニックに行ったとき、私の手持ちクラギ(黒澤ギターではなかった…)を診断調整してもらい、私の細かい様々な質問にも丁寧に答えていただいた。背が高く体格の良い方で、キックボクシングを趣味でされているとのこと。そのとき新品のEstandardを試奏し、値段を超えた音とスペックに感心し、いつかは手に入れたいと思っていた。しかし、このモデルは非常に人気が高く、中古などが出ても値段が高いうえすぐに売れるため、なかなか良い機会に恵まれなかった。

 K.Yairiギターを久しぶりに落札して以来、ヤフー・オークションを見る機会が増えていた。何気なくギターカテゴリーを見ていたら、黒澤哲郎Estandardが出ていた。2010年製で比較的新しいが、ライブ演奏用に後付けピエゾピックアップを装着していたのを取って元に戻したらしく、サドル溝にピエゾ用の2mmの穴が、エンドブロックに12mmのジャック用の穴があいたままになっており、ネックヒールにストラップピンを取った小さなネジ穴あとがあるという。しかし、この三つの穴以外は、黒澤工房で哲郎氏本人によるトップのシェラック補修をしたらしくセットアップは完璧とのこと。ギターとしての音や演奏性には何ら問題はないようである。ただ、落札者がピックアップをまた付けるかもしれないということで、現在は穴があいたままの出品なので「難あり」扱いということで格安スタートらしい。終了日時は外出中のため、やや低めの金額で事前に入札していたら、定価の3分の1ほどで落札できていた。

 送られてきたギターは、最近のものにしては結構弾き込まれておりトップの弾き傷はわりと多かったが割れなどの致命的なものはなく、トップ以外は比較的奇麗であった。不思議なことにトップの弾き傷が多いのにフレットはほとんど減っておらず、少しフレットの端が引っかかり気味になる所があるが、致命的なネックの反りやトップの浮きはない。弦高は私にとってはやや高めであるが、一般的にはほぼ適切である。全体を磨き上げて弦高を微調整した。

 音はスペインっぽく元気でハリがある。スペイン系ギターは弦のテンションが強く、弦幅もやや広くて私には弾きにくいものが多い。しかし、このギターはスパニッシュな音とボディであるが弦のテンションはさほど強くなく弦幅も標準的である。

 大小3つの穴があいていること(サドル溝の穴は見えないが)と、トップに弾き傷が少々目立つこと以外は、音も弾きやすさも黒澤哲郎のEstandardであり、見た目を気にしなければスペイン系の素晴らしいクラギである。すでに小傷が多く、少々打痕が増えても気にならないため、練習用に最適である。これが定価の3分の1ほどの価格で落札できたのは非常にラッキーであったと言えよう。

 さらにラッキーなことに、購入から2ヶ月後に2年前に行ったものと同じ黒澤哲郎氏のギタークリニックがあったので持っていき、少し気になっていたフレットの端の引っかかりと、やや高めの弦高を調整してもらった。これにより、非常に弾きやすいギターになった。その2年後、キズが多めでも弾きやすく音の良いクラシックギターが欲しいという生徒さんにお譲りすることとなった。

 その2年後、同じ2010年製で前よりも状態が非常に良いEstandardを再び入手した。購入金額を考えると驚くほど良い状態で、何よりバランス良く鳴っており、音量があるのにレスポンスも素晴らしい。弦高がやや高かったのでサドルを削り、ナットの溝を磨き、ペグをGOTOH510に交換し、7Fサイドにポジションマークを入れた。結果、非常に弾きやすくなったので、生徒さんの2本目・3本目に適した、手工クラシックギターのお勧めとしてストックしている。