01 Hotta No.100

Hotta No.100(000タイプのフォークギター)1973~1974

 1972年、中学1年生のとき、近所の叔父の家にあった古いクラシックギターを見た。その時すでにブラスバンド部に入部しており音楽に関しては色々なものに興味を示していた。その日からギターが頭から離れなくなっていった。叔父に頼み込んでそのクラシックギターを借りてCやGなどの基本コードを練習し始めたが、日本ではその頃フォークソングブームでテレビやラジオからはフォークギターの映像や音色が絶えなかった。ナイロン弦のクラシックギターでの歌伴奏は演歌の流しのおじさんのイメージが強く、ピックガードの付いた金属弦ギターが欲しくてたまらなくなっていた。神戸の実家近くの商店街のレコード店(当時は町のレコード店に楽器も売っていた)にぶら下がっているピックガードの付いた金属弦ギターを休みになると見に行っていた。

 1973年中学1年の1月、お年玉を持って正月あけに神戸の実家近くの商店街のレコード店で一番安い7000円のギターを購入した。レコード店のため店員はギターのことは何も分からないようなので相談できなかったし、何より予算的にこれしか買えなかった。
 記憶からはヘッドにHottaのロゴ、ボディ内に堀田のラベル、000タイプのボディ、0フレット仕様、14フレット接続、黒のマーチンタイプのピックガードであった。しかし、メーカーも何も知らない私は、とにかく金属弦でピックガードが付いていればそれで十分で、弾きやすいとか弾きにくいとか、音が良い悪いなんて何も分からなかった。

 夕方までブラスバンド部の練習、家に帰って夕食後は、寝るまでギターの練習という日が続いた。うちは決して裕福ではなく、狭い長屋に住んでいたためギターの中にタオルを詰めたり、ブリッジ付近の弦をスポンジではさむ消音器を自作したりして、夜の練習は音漏れに気を使った。当時は近所にギター教室などはなく、周りにギターをしている友人もまだいなかったため、演奏方法やメンテナンス方法など、雑誌を参考に、すべて独学で練習していた。ブラスバンド部は結構厳しく、新入生はまず楽典を購入させられて楽譜の読み方、調や音程、音楽記号など徹底的に叩き込まれた。おかげで楽譜の読み書きは中1でできるようになっていた。また、中2からは部内のチューニング担当になり、毎日様々な管楽器の音色の違う音程を高い低いと指示していたので耳も鍛えられていった。

 小遣いはヤング・ギターやガッツなどのギター雑誌、弦、ピック、ストラップ、ヘッドにぶら下げるマスコット代などに消えていった。ちなみに当時のやや軟派のフォークシンガーの多くが小さなフェルトマスコット(ぬいぐるみ)をペグなどからぶら下げてギターを弾いていた。それがエスカレートしてファンからもらった大量のマスコットをぶら下げるプロシンガーも現れた。(以前の携帯ストラップのよう)また、弦を張った後は余った弦を切らずにそのまま放射線状にピンピンに伸ばすのがシブイとされていた。なぜか余った弦を切ると音が悪くなるという噂があり、雑誌などにも「弦は切ってはいけない」と平気で書かれていた。次第にピンピンから丸めてまとめられるようになり、今では短く切られるのが常識になっている。いずれにしても当時のヘッドはマスコットがぶら下がり、弦の余りがピコピコ動いて、それはにぎやかであった。

 練習が進むにつれだんだん弾けるようになってきた。1973年夏あたりには徐々に音や弾きやすさなども何となく分かるようになり、どうやらこのギターは音程が悪く弦高も高くネックも太く弾きにくいということが分かってきた。さらにテレビに出てくるフォークギターの形が自分のHottaとどこかが違っていた。テレビや雑誌で目にするギターのほとんどがMartinのドレッドノートタイプ(Dタイプ)ボディの大きなギターだったのである。当時はそれをウエスタンギターと読んでいた。私の000タイプの小さなボディのギターは「やまがたすみこ」や「シモンズ」などの可愛い女性フォークシンガーの映像か、TVジョッキーの景品の白いギターくらいしかお目にかかれなかった。
 現在のボディの人気はスモールボディ寄りになっているが、70年代の日本ではDタイプこそがアコースティックギターだったのである。当時のスモールボディのアコギは入門用的な扱いで、チープな廉価モデルしかなかった。「大きなDタイプボディのウエスタンギターが欲しい!」私は翌年のお年玉にプラスするため、小遣いを節約し貯めていった。